第1章 2010年までの歴史 1.はじめに 2.2000年〜FCエクリプス誕生 3.2005年 転換期 4.2006年〜2007年 手ごたえ 5.2008年〜2009年 得点力不足で下降線 第2章 2010年大会前の出来事 6.2010年「大躍進の予感」 7.試練1「鈴木翼の離脱」 8.試練2「南島憲行の離脱」 9.試練?3「田中翼の結婚式」 10.再出発 11.日コンさん 第3章 1次予選リーグの戦い 12.第10回TJKフットサル大会1次予選リーグ゙ 13.第1戦 潟jッポンダイナミックシステムズ 14.第2戦 JBアドバンスト・テクノロジ− 15.第3戦 潟Vステムコンサルタント 16.大番狂わせ 17.第4戦 潟Aイソルート 予選突破! 18.確信までの長い時間 第4章 1次予選リーグを振り返る 19.1次予選リーグを振り返る 20.海峡で祝勝会 21.神情協フットサル大会 第5章 2次予選リーグの戦い 22.2次予選リーグ 23.第1戦 日本総合システム 24.第2戦 中央システム 25.第3戦 アイテル 26.2次予選リーグ突破! 27.第4戦 鰍cTS 28.日コンさんを応援 第6章 2次予選リーグを振り返る 29.2次予選リーグを振り返る 30.海峡で祝勝会2 31.18/105 32.本番前の練習 第7章 決勝トーナメント 33.決勝トーナメント 34.第1戦 鰍mTTデータ・エービック 35.敗退後の大会 36.慰労会 37.2010年最終戦 〒171-0014 東京都豊島区池袋2-55-13 コンピューター・システム・エコー株式会社 TEL(03)3981-6967(代) |
第2章 2010年大会前の出来事 6.2010年「大躍進の予感」 2010年は過去1番早い1月9日から始動しました。そこからほぼ毎週末に練習を重ね、今までよくあった「人数が集まらないから中止」ということがなくなり、また東洋インキ製造鰍笂本コンピューター鞄凾フ実力のある相手と多く練習試合をやっていくうちに少しずつ力をつけていったと思われます。 それと不思議なことに大宮建保グランドは雨だとコートの性質上、活動ができないのですが毎週予定された練習も4月1回と5月1回が雨で中止の後は10月30日に台風のため中止になるまで22週も連続で活動できたことです。梅雨の時期も猛暑の夏もすべての週で練習ができました。 また大宮建保グランドの抽選にハズレたのも土曜日は無く、日曜日に2回でしたので、土曜日にハズレた時に民間の大会に参加しようとしたものがかなわず、TJKの大会がこの年の最初の大会になったのは大きな懸念材料でした。それでも活動回数は過去最多の45回になりました。 上記の通り1月から5月にかけて計14回の活動があり、そのうちチーム練習は1回のみで、残りの13回については東洋インキ製造鰍はじめとする練習試合でした。 6月に入ると梅雨による中止が多くなると考え全ての週の土曜日及び単発で日曜日まで申し込んだところ雨天中止が1度もなく土日連チャンも含め5回の活動を行い、26日には日本コンピューター鰍ェ初めて参加するなど対戦相手にも恵まれ、また暑い日が多く体力強化にうってつけでした。 7月も不思議なことに雨天中止が1度もなく厳しい暑さの中、活動回数は更に増え6回となり、その全てで練習試合を行い、戦術強化よりは体力強化に努めていました。 8月になると異常気象が猛威をふるい「113年間で最も暑い夏」と気象庁が発表した通り、暑いなんていうレベルではなく走っていて死ぬかと思ったこともありました。それでも全ての週の土曜日に4回の活動を行いTJK大会に向けてのチーム構成や戦術の浸透を考えるようになりました。 基本的なチーム分けはひとつが赤羽、鈴木政、鈴木翼、南島でキーパーが堀口、もうひとつが佐藤、宮本、高橋、生田、関口でキーパーが大滝です。これを基本ベースとして徐々にチーム強化をしていき、何よりみんな体力には自信がついているのでTJK大会での活躍が期待できました。 実際にこのメンバーで試合をするととてもしっくりいき、手ごたえを感じずにはいられませんでした。また東洋インキ製造鰍フメンバーからも今まで予選突破が一度もない事を話すと、そんな弱いと思えないと言ってくれて、単純な事でも自信に繋がりとてもうれしく思いました。 過去2年間TJK大会では全敗しているため、現実的な目標は「まず1勝」となるのでしょうが、この時の私の気持ちはこれならいける。メンバーが揃い、多くの練習をした今年が最大のチャンスだ。絶対に予選突破だとかなり非現実的ではありましたが、相当に前向きなものでした。 7.試練1「鈴木翼の離脱」 練習試合で負けることも少なくなり、あまりに順調にいっていたチームに激震が走ったのは8月21日(土)の練習でした。中心選手である鈴木翼君が左足靱帯断裂の大けがを負ってしまいました。当日はそんな大ごとになるとは思わず、本人から連絡を受けたのは翌22日(日)でした。 けがの心配は勿論のこと、やはり気になったのはTJK大会の事でした。しかし本人の口から無理だと聞いたときは出場できない鈴木翼君の無念さを感じると同時に、私の大会に対する気持ちが切れかかりました。 レベルが高く、多くの練習に参加した鈴木翼君がいてこそのチーム編成でしたし、そこが抜けてしまう穴はあまりに大きすぎて、せっかくのチャンスが遠くに離れていくようでした。 どうすればいいか。とても大きな問題を抱えてしまったチームですが最初に私が考えたのは板垣君の出場です。2007年までは主力としてチームを引っ張り、得点力もある中心選手で、ここ数年は参加数も減っていたのですが、それでも出場すれば活躍してくれると思いました。鈴木政君も鈴木翼君も同じ考えでいましたが、結局都合がつかず出場はできませんでした。 しかしここで鈴木政君がおもしろいアイデアを出します。オールラウンドだった鈴木翼君のポジションに、新人でフットサルの経験が浅い角田君を守備専用として置くというものです。8月7日に初めて練習に参加したばかりで、大会では試合に出せないと伝え、ビデオ撮影をお願いしていたのですが、そこで守備に専念するとかなり高いレベルの相手でも自由にプレーをさせず期待以上の出来でした。これなら大会に出場しても通用するのではないかと考え、新たな出場メンバーが誕生しました。 主に角田君が守り、トップのポジションに運動量豊富な南島君を置き、常に前からのプレッシャーをかけ私と鈴木政君がサイドから上がっていくという、新しいチームとして再出発する準備が整いました。そして猛暑冷めやらぬ9月4日に初めてこのメンバーで練習試合を行うことになりました。 だれも鈴木翼君の代わりにはなれないしチーム力は落ちますが、このメンバーで練習を重ね強くなるんだと気持ちも盛り上がってきました。しかし目の前には大きな落とし穴があったのです。 8.試練2「南島憲行の離脱」 潟Vーアイシーが参加した9月4日は鈴木翼君が戦術担当として駆けつけてくれました。実際このメンバーで試合をしてみるとバランスが良く、そもそも私と鈴木政君の関係はもう10年も一緒にやってますから特に大きな問題は無く、角田君は高いボールも足元もしっかり守れ、運動量もあり危ない場面での戻りも早く戦力になることを証明し、また南島君も暑い中で労を惜しまぬ献身的な動きで周りを助け、これならいけそうだという感触をつかみました。 間に合った。大会まで1ヶ月あるので、あとは練習を重ねチーム力を高めるだけだと思った矢先、今度は南島君が体調不良で病院に行ったと川島取締役から連絡がありました。以前も2度ほどフットサルの後におこった症状で、入院したこともあったので大変な事になったと思いました。翌日になって南島君に連絡が取れたのですが予想通りドクターストップがかかってしまい大会に出場ができないとのことでした。 余談ですが本当にこの夏の暑さは異常でとてもスポーツをやる陽気ではありませんでした。それがかなり影響したと考えているのですが怪我や病気が絶えず、南島君と靱帯断裂の鈴木翼君以外で思い出すだけでも、東洋インキで参加したメンバーがろっ骨骨折、また私の息子がサッカーの練習中に左手首骨折、同じ部活で他に2人も骨折、また大滝君の仲間にいたっては野球の試合中に心肺停止になるなど数多くの良くない報告がありました。 ここまで重ねてきたものがまた崩れてしまい、南島君の体調の事もあり再び私の気持ちが切れかかりました。 9.試練?3「田中翼の結婚式」 このころになるとTJKフットサル大会の概要が発表されました。今年から1部、2部制となり私達は過去の成績から当然2部での参加となりましたが、初参加のチームも2部からという事で大手の強いチームが含まれていると予想されました。 また1次予選リーグが10月2日(土)、3日(日)、9日(土)と発表されたのですが、この中の2日(土)はメンバーである田中翼君の結婚式でした。 今までの主力メンバーであった田中君ですが2009年のTJK大会は都合がつかず不参加で、2010年になっても式の準備等であまり練習に参加ができず、この大会も参加できるのかどうかがわからない状況でした。しかし仲間のおめでたい話ですから心から祝福したいのは当たり前です。 試合が2日になってしまえば結婚式に出席なのですが、それでは田中君も気にするでしょうし、何よりそうした事態を避けるに越したことはありません。TJKのガイドラインによると参加希望日の受け付けは一切出来ないと明記されていますが、事情を話したところTJKの担当の方にもご理解をいただき、約束はできないけど2日は避ける方向で検討すると言ってくださいました。コンディションを考えると3日(日)も避けたいところですがそこまでずうずうしいことは言えません。 そして発表された対戦表を見ると9日(土)となっていたので、TJKの配慮には本当に感謝しました。 また試練と書いたのは軽い冗談だから真剣に受け止めないようにね。 10.再出発 9月11日(土)は大会会場であるSALU川口で日本自動化開発鰍ニの練習試合です。大会前にコートを経験しておきたかったのですが、1部での参加となる日本自動化開発鰍ヘ強い相手でした。数試合を行い多くの失点を重ね、FCエクリプスのあげた得点は関口君とオウンゴールの2点だけでした。 自信を失いそうな展開で、こうなると根本的に大きな見直しが必要となり、新たなチーム編成が組まれました。ひとつのチームは赤羽、鈴木政、宮本、高橋淳でキーパーが堀口、もうひとつが関口、佐藤寿、生田、角田でキーパーが大滝です。 おおまかな考えでは私のチームが前半で得点をあげ、もうひとつのチームが後半で逃げ切るというものです。また今まで守りの要と考えていた高橋君をトップにし、サイドの宮本君を後ろからコントロールする役割に鈴木翼君のアイデアで編成したのですが、後々この決断がFCエクリプスの歴史を変えるほどの大当たりだったのです。 その後は9月18日(土)に東洋インキ製造鰍ニ練習試合、25日(土)にチーム練習を行い徐々に仕上がってきました。10月2日(土)は田中翼君の結婚式でその帰りに私と鈴木政君、堀口君そして帰るルートの違う鈴木翼君が同じ電車に乗ってくれて一緒になって大会に向けて話し合いました。日本自動化開発鰍ニの試合を後からビデオで見た鈴木翼君は細かい修正点を指摘のうえ「日本自動化開発鰍ノも勝てますよ」と言ってくれました。本当にそう思ったのか、チームを落ち込ませないように言ったのかはわかりませんが、そう言って盛りたててくれました。 そして準備万端に翌日の3日(日)もコートを予約してあったので東洋インキ製造鰍フ若手との練習試合を行い、大会前最後のチャンスですから本番を想定したいい内容になりました。 この日は不参加でしたが私の友人である「りこパパ」(大塚隆之君)がいる東洋インキ製造鰍燗c辺さん、荻野さんはじめ多くのレベルの高いメンバーが付き合ってくれて、この年はこれで18回目の参加でしたので、FCエクリプスのレベルアップに貢献してくれた事は本当に感謝しています。 そしてこの日は同じく練習仲間である日本コンピューター鰍ェ1次予選リーグを戦っている日でもありました。 11.日コンさん 日本コンピューター梶i日コンさん)とはこの年の6月から月1のペースで一緒に練習試合をしていたのですが、実際にはレベルはかなり上で、真剣になればなるほど勝てなくなってしまうのですが、でも絶対に勝てないということもないとこの時までは思っていました。 日コンさんとしては初めてのTJK大会参加です。1次予選を突破するのはそんなに簡単なことではないですがどんな戦いになったか、どういった成績を残したかは自分たちの物差しにはなると思いました。日コンさんが良い成績を残せば今の自分たちにもやれるんだ、自信になるんだと。 そして見事に1次予選を突破したと知らせがあり、とても嬉しかったのですが過去5回参加して予選突破どころか酷い成績しか残していない自分たちを考えるとみじめな気持にもなり、とてもうらやましくもありました。 翌日に日本コンピューター鰍フ三重野さんと司城さんにお会いしたのですが、その時の三重野さんの第一声が笑顔で「勝っちゃいました」です。もう羨ましくって仕方ありません。得点を聞くと「第一試合が10−2で、第二・・・」 「ちょっ!・・・10点?いきなり?」 「ええ。あと1試合が不戦勝で、あとは5−2と4−1かな。エコーさんも大丈夫ですよ」 そう言ってくれましたが大丈夫なわけがありません。私達は過去に10得点なんて無いし、それがいきなりの初戦でしかも全試合楽勝なんですから強すぎます。もしかしてくじ運が良くて楽なグループに入ったんじゃないかと思いましたが、それはひがみ根性が過ぎました。 日コンさんが1次予選を突破したことはとても嬉しく祝福の気持でいっぱいでした。しかし自分たちはどうなんだ、日コンさんがやれたから自分たちにも出来るんじゃないか、でも日コンさんが強すぎただけで自分たちは無理なんじゃないかといろいろな事が頭をよぎりとても気持が混乱しました。 「エコーさんも大丈夫ですよ」最後にもう一度三重野さんが言ってくれました。 第3章 1次予選リーグの戦いへ続く |
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